某日、哲学談話的なものに参加。
結論:絶望しかなかった。
哲学って抽象的な問題を抽象的なままふわっと、今ある常識だけを正解とせずに、別の答えや物事の本質を探していくもんだと勝手に思ってたのだが。
実際参加してみると、「ここにいる皆さんはそこそこの大学を出てらっしゃるはずですけど〜」とか「勉強してなかったけど今はちゃんと働いて結婚してるんだ、偉いね」とかそういう発言が随所にあり、なんとなく全体の話題の傾向も上から目線気味。
んで、いい学校行かないと将来詰むよね!たとえ会社で偉くなってもやっぱFラン大学卒上司の指示はわけわかんないし、子供にそうなって欲しくない!ワハハ!で終わりみたいな。
己の学問努力を肯定して気持ちよくなりたいのか……?
よくわからないが、
そうじゃねーだろ!!?!?!嘘でしょ!?!?
の連続というか。(笑)
いやーー。しんどかったな……。
とゆーか、私には合わなかった。
総合して、人の話を聞きながら私は悟った。
哲学とは「絶望の学問」なのだ。
そして、「人間は常に何かを裁きたい」生き物なのだと。
参加者が口々に言う意見はどれも間違っちゃない。そもそも人間の発言や行動に確固たる間違いは存在しない。生きていることが正解であると思う。
けれど、全部の話を聞いてると確実に絶望する。
それは、どうしたって人間個人の願い(理想論)は社会全体の願い(現実)と一致しないからだ。つながらない。私の痛みは救われず、むしろこうやって潰されるのだと、他人の意見を聞けば聞くほど、潰されの現場やプロセスを目撃することになる。
抽象的すぎて伝わるか謎だが、こいつはなかなかしんどい!
とゆーようなことを考えながら人びとの話を聞いている私は、他人をあるいは己の至らなさをひたすら裁いている。
私が意見を言うときも、全員のお前に何がわかんの?そんなふざけた格好で小娘が(笑)という視線が突き刺さる。現場を暖める小慣れた発言が無言で要求される。案の定私がふざけたことを大真面目にいうので変な空気になる。
私は裁かれる。そして裁いてきた他人を裁く。
これもまたなかなかしんどい!(笑)
でも、人間が二人以上存在する限りこの裁きは確実に発生する。いつもそうだ。普段ひとりぼっちだから忘れてるだけで。サルトルの言う「地獄とは他人のことである」を思い出して泣きつきたくなる(サルトルに)。
そしてきっと、人間の大半はこの無限裁き地獄に耐えられない。
だから宗教が必要なのだろうと思う。
自分の裁きを委託するために宗教は存在する。(委託すると人間の心は軽くなる)
日本人は、今日の会合のように空気とか「みんな」のような無言の圧力による裁きが得意な部族なのだろう。目に見えた宗教があると無言の圧力が発動できないので、目に見えない宗教「みんなふつう教」をとても大切にしている。目に見えないということは、解決もしづらいということだ。
言語化しづらい、感覚的な喜びや苦しみを日本人はとても大切にしている。
(一方で、同調圧力があるならば、同調解放もあるのかもしれない。ここではないどこか。)
私は、学生の間やその後もニートやったりフリーターやったりの暇な時間にいろんなところでいろんな階層、年代、地域、国籍の人間と接しまくってきた。いろんな頭の中身の人がいて、いろんな見た目や能力の人といろんな仕事をした。いろんな場所に住んだ。いろんな人と話をした。
だからこそ「Fラン大学」とか「メンヘラ」「マジキチ」「無敵の人」「子持ち様」など平気でラベリングする人に思うところがあるし、何かを否定したくても、該当して思い出してしまうリアルな人間がいる。彼らは果たして何か悪いことをしていただろうか。
これらを同情と呼べば私は尊大な人間だし、共感やエンパシーと呼べば私は寛大な人間だろう。
……こんな感じでひたすら約二時間絶望し続けた。
そして、絶望している私を救い、生きる方向へ向かわせるのは、私が私自身の中で行う(今長々と書いてきた)哲学っぽい行為によって生まれるエネルギーだったりする。
まさかこのプロセスが真の目的か!?(笑)
生きてて一度でも心底から絶望したことのある人間か、そうでない人間かの境目は大きい。だからこそ、哲学という橋は希望になる。というか、私は希望としてきた。哲学によって、絶望している絶望(対象)ごとまるっと疑うことで、絶望をリセットできるからだ。けれど、今回みたいにやり方や相手を間違えると、別の絶望に行きすぎて命を落としそうだな!とゾッとした。
そんなことを考えながら自転車に乗っていたら、強風に煽られてかぶっていた帽子が後ろに飛んでいった。慌てて取りに戻ったら、通行人のお姉さんが走って拾って笑顔で届けてくれた。世の中って捨てたもんじゃない。
優しさは、まわりから優しくされて育った人には自然に備わるけど、そうじゃない例外の人というのが常にいる。そういう人は、違うかも!ってなる人は、やっぱ生きてて辛い気分になりがち。そりゃそーだ。だから、哲学とか文学みたいな思考実験や人の話を聞くってことで、後天的に学習していくと生きやすくなるのかな〜なんてことも思いますね。まあ、わかんないけどね!
かつてニートでSNSやって毎日ウジウジ投稿してたとき、「哲学しないで行動して〜wwwww」と空リプで嫌味っぽく煽られたことがあって。私は自分が哲学してる実感がなかったけど、哲学してるんだ!?むしろ、私って哲学できてるんだ!?そう見えるんだ!?と煽られたことによって気付かされて。(笑)
だからそういう集まりに行ってみたけど、似たような人間が多くて面白かったけど、でもなんかちょっと違うかもな!疲れてしまった!という1日でした。
口先でかっこいいこと言うのはタダだし、Twitterで同調して猫の写真上げて他人を叩いて何も考えないのはラクだけどさ。何の利益がなくとも他人の落とし物のために無償ダッシュできるお姉さんみたいになりたいから私は筋トレ頑張ります!