「シンエヴァの衝撃、取り急ぎ雑感※ネタバレ含みます」
※シン・エヴァネタバレ含む感想・雑記です。
※考察の類は一切ないので、そういった方面での深みを求めている方は他を当たってください。
映画とは洗脳の時間だ、そんなことを思った。
3月6日
心療内科で鬱の診断を受ける。
軽快→やっぱヤバいかも……→鬱ですね~
を何年も繰り返しているので、また逆戻りかという感じ。
薬もそうだが生活習慣や仕事を減らすことでやり過ごしていきたい。
溶けかけた泥のように歩きながら、帰りしなレンタル屋でハロプロの音源を漁る。
(サブスク非解禁なのでCDを探す必要があるのだ)
3月7日
ひたすら寝ていた。
3月8日
仕事の日だったが、もう全く圧倒的に起き上がることが出来ず、欠勤。
昼過ぎにトイレに行くのと水を飲むためにやっと少しだけ動き、そういえば今日からシン・エヴァンゲリオン公開じゃないか……と思い出し、映画アプリを起動。
身体がほんっとにしんどいし、着替えて映画館行くの本気でダルいなと悩んだが、
「明日はどうなるかわからないし、なんか、見に行けるなら早めに行ったほうがいい気がする」
と思ってチケットを取った。
現在東京は緊急事態宣言下にあり、映画館の営業は20時までに制限されている。
逆算すると、上映開始の最終時刻は17:10が限界のようだ。
仕事終わりに行くことは出来ないので、よって、平日は休みを取って行く必要がある。
だったらもう今日行ったほうがいい。多分、見に行かなかったらバレ回避でイライラしながら日々を過ごすことになるから、さっさと行こう。
遅めの回は徐々に座席が埋まっていたので、比較的余裕のあった16時ごろの回を取った。
長丁場の作品なのは把握していたので、なるべく温かい恰好をして、ずるずると足を引きずりながら映画館へ。
ご飯を食べる気力がなかったので、チュロスを買って、むさぼりながら予告を眺めた。
本編。
非常にわかりやすい話にまとまっていた。
ハッピーエンドだ。
ということは、「ハッピーとは何か?」を定義しているわけで、
それこそが作品の迷い込んでいた長いトンネルの先の光であり、
ずっと欲しくて手を伸ばしていた星そのものであり、
めちゃくちゃエンタメ的な答えだった。
監督はずっと「作品と作者を混同するな」と怒っている印象が強い人だったが、
ここに来て作品と自身の人生が融合した(としか思えない)のは非常に興味深かった。
シリーズの根幹にあった、親と子の確執=ACとしての生きづらさは「対話」というまっとうなリングで展開、解決されて、あっという間に物語はカタルシスを迎えた。
アニメーション映像から実写の空撮へ切り替わってゆき(このあたりの過去作品の回収や実験的な映像・色彩の数々はかなり必見)、監督の故郷、宇部の駅が出てきたときにはもう、納得。って感じだった。
私はエヴァというよりはモヨコ先生のファンなので、メルマガやブログや本を愛読していて、そこ経由で監督情報を仕入れて(?)いることもあって、
先日配信されていた安野光雅さんの本と監督と監督のお父さんのエピソード(大変感動的なのでぜひ読んで欲しい)を読んだ際に、「エヴァのラストは碇親子が和解できるのかもしれないなあ」ぐらいに軽く投影して読んでいた。
NHKでも安野光雅特集を再放送していて、ちょうどそれも見ていた。
そのあたりを踏まえると、トウジやケンスケ達が身を寄せ合っている集落はまさに安野光雅の絵本に出てくる農村風景とそっくりだったし、後半の親子対話の展開や物語の結論も「嘘偽りのない監督自身の結論なんだろうな」と受け入れられた。
これまでは主人公が問題に悩み、それを周りに何とかして理解・解決してもらおうとするがうまくいかず、結局物語は常に破綻や危機を迎えていた。
今作(最終作)は、まず周りを見渡して人の話を聞いていくことで自分の置かれた状況を鑑みて、ひとつずつ問題を潰してゆき、結果的にマリと結ばれたので、
まあたしかに状況だけ聞くとビックリするけれど(マリかよ~~!!!)、話の流れで観ると自然。
「マリはモヨコ先生だったんだね」って意見をよく目にするけれど、確かに構造としてはそうなのかもしれないけれど、どちらかというと先生のメンタリティはアスカに近いような気がしてならないが……(作品を拝見する限り)。
それ以前に、あまりキャラクターと生きた人間をダブらせるのはどうかと思う。
マリが鶴巻監督が作った、完全に他者・外部のキャラクターであり、その存在が光の先へ自分を導いてくれるっていうのはすごく造りとして驚きもあるし、美しいなあと思った。
「ケンケンって誰だよ!」と思いつつ「ケンスケかよ!」と爆笑したケンスケとアスカがくっついているのも、妙なエロさがあり(笑)私は非常に好きだ。
(あの二人の暮らしぶりがとにかくいやらしい。見た目の年齢差がありすぎて教師×生徒的な少女漫画的背徳感があって興奮する)
その他も各自キャラクターが尺の中で可能な限り生々しさをもって描かれていた。
人数が多すぎて描き切れていない感は否めないが、まあそれは今後のスピンオフの布石でしょう。
肝心の主人公シンジ君が失語症→聞き手役として機能したため、心情がはっきりしないのは結構気になったけれど、
パンフの緒方さんインタビューを読んだらいい感じに補完されたのでそれで良しとした。(パンフがあまりにも必読本すぎるので全員に配布した方が良いような……)
私が一番ぐっと来たのは(何回も見るうちに変わるかもしれないけど)
ゲンドウがシンジの中にユイを見出したところ。
歳を取るにつれて、自分の中に父親/母親の影を深く感じるようになる。
その感覚に触れられたようで、妙にぐっときた。
あの一連だと親子喧嘩のやりなおし(ミサトさんの部屋とか面白かった)は、親とまともに向き合うことができなかった/できない自分にとっては、羨ましいなあという気持ちにさせられる、まぶしいシーンだった。
私は萩尾望都先生の「残酷な神が支配する」を人生のバイブルにしているので、
親と子の連鎖的な支配についてはある程度自覚的なのだが、
ゲンドウの独白(後半いきなり正直に語りだすから結構びっくりした)を聞きながら、
ゲンドウが可愛くて仕方がなくなってしまった。
彼のやろうとしていたことも何だかちっとも悪いことのように思えず、
地球は綺麗になるし、人間の苦しみは消えるし、いいことづくめ!
最高の作戦じゃん(笑)ぐらいに思ってしまった。
いや、実際やられたらムカつきますけど……。
今ちょうど「1984年」を読み終わるところなので、ちょっとダブらせて考える部分もあった。
だらだらと書き連ねたが、以上はかなり肯定的に捕えている部分で、
正直言うと、もう半分ではひねくれた私が暴れている。
ぶっちゃけ「1900円払って結婚マウントされたんだけど!」と言いたくなる人の気持ちもわかる(笑)
実際、私は現在軽度だが鬱状態にあって、仕事はろくにできず割とどん底だし、恋人は数年間いないし今後も出来る気配はなく、仲のいい友達もいなくて(鬱になるとマジで友達が減る)、家族は死別・疎遠で、まあ散々なありさまで、
そんな人間がこの映画を見ても、
「いいよなあ、家族が和解できる相手で。うちなんかマジで会話になんないし永遠に分かり合える気がしない」
「正論言われてもなあ……顔を上げたところでどんづまりがよく見えるだけなんだけどなあ」
という暗い気分が晴れることはなく、むしろルサンチマン指数が高まる一方であった。
こういう文句ばかりのどうしようもない人間に対して、貴重なお説教+経験を踏まえた現実を教えてくれているのはわかるんだけど、だとしても響かない時には響かない。
「なんだよ恋愛至上主義かよ!なんだよおっぱいって!いいよな!素敵な出会いがあった人はいいよな!」
としか思えない。
そもそもそんなルサンチマンがなければこんな名作も生まれないわけで、
「大人になれよオタク達!」っていう問いかけ自体が自己矛盾してんじゃん……
なんでボロボロの俺の背中を蹴飛ばすんだよ……
と半べそで項垂れるピーターパン症候群のオタク(鬱病)(湖に釣りに行きたい)。
そんな感じで、作品の面白さと、自身の現状への投影がかなり乖離していて、
それで感想が超面白い/超ムカつくの50/50になっている。
ただ一つだけ確実に言えるのは、監督の出した渾身の答え=ハッピーエンドはその人自身の答えという点で否定の余地がない。
観客がどれだけ共感しようが共感できなかろうが、気に入ろうが気に入らなかろうが。
それと同時に、自分たちの答え=ハッピーエンドを否定する必要もないし、否定される筋合いもない。
作品の答えと自分の答えが違っていても、それが将来合致するかもしれないし、永遠に合致しないかもしれない。
別に、それでいい。
だとしても、なんだとしても、とにかく様々な要素で突出している、この作品の面白さは揺るぎない。
監督が全身全霊で作り上げたのが痛いほど伝わってくる。
感受性がぶっこわれるかと思った。
あまりの情報量と衝撃と興奮で、夜眠れなくなって本当に困ったぐらい。
大体の映画がそうであるように、複数回見たら気持ちも落ち着いてもう少し肯定できる割合が増えてくると思うし、
考察を楽しむ余地が出てくればさらに作品を好きになれるだろう。
ただ、まあ、びっくりしたなあ。神木君……。(笑)
モヤモヤをとにかく書き連ねたので非常に内容も粗末でまとまりがないが、
また何か書きたいことが出来たら追記する。